2008年05月10日

体力が無ければ虚証、体力がある人は実証、その中間が虚実中間証と規定する日本漢方の錯誤

 本日たまたま二度目の来局者で、黄連解毒湯製剤を主体にした三種類の配合をお出ししていた人から質問を受けた。

 漢方薬専門の書籍を数冊持っていて、いずれの本にも黄連解毒湯は体力の充実した実証用の方剤と書かれているが、自分のよう虚弱性の体質に大丈夫だろうか?

 黄連解毒湯製剤を規定の半分量で服用頂いており、既に鎮静効果などを感じられ、他薬との配合で他症状にもやや効果が出ている上でのご質問である。

 確かにこの方は、見かけ上は明かに華奢なタイプで日本漢方の虚実論から言えば「虚証」と判断されるのだろう。
 だから既に病院で出されていた六君子湯を代表とする各種虚証用の方剤では効果がなく、虚実中間証用の方剤で一部効果があったのであろう。

 ところで、そもそも体力の充実度で虚実を判断する日本漢方の考え方事体があまりに稚拙で、あいまい過ぎるのである。
 体力が充実しているのが実証なら、実証の人はどうして病気になるのか不思議な理論である。

 こんな幼稚で理屈に合わない錯誤した理論を引っ提げて「WHO東アジア伝統医学用語の標準化」の作業に出席する資格があるのか実に疑わしい。

 虚とは正気の不足を指し、虚証とは正気不足を示す証候である。
 実とは邪気が盛んなことを指し、実証とは邪気が盛んなことを示す証候である。

—『中医学基礎』(1978年:上海科学技術出版社発行)

 これこそが虚実論の本流のはずであるが、日本で出版される多くの一般向け漢方書籍類では、体力で虚実を分類する錯誤をおかすから、華奢なみかけの人には永久に大柴胡湯も黄連解毒湯も使用できないことになる。

 虚実論をもっと詳しく知りたければ、虚証と実証についてがある。
 これは以前、『中医臨床』誌に依頼されてヒゲジジイが翻訳したもの。

 さらにヒゲジジイの血気盛んだった昭和末期に『漢方の臨床』誌に掲載された日本漢方の将来「中医漢方薬学」の提唱 は、当時日本の漢方界を震撼させた記念碑的な拙論だが、その一部を引用しておこう。専門用語が未熟な日本漢方

 「虚実」の問題において、<体力が余っているのが実証><体力が衰えているのが虚証>と表現する漢方の一般向け啓蒙書籍が多い。その実、漢方の専門家個人個人によって様々にニュアンスの異なった解釈がなされているが、やはり結果は大同小異である(文献5)。この実証、虚証の極めて幼稚な解釈は数々の困った現象を生むことになる。

 現代日本漢方の特異な風潮として、体質ばかりでなく方剤においても実証用、虚証用、虚実中間証用などと規定することに熱心な現象が見られるが、これは病人の状態を常に固定的に捉えることを奨励するような間違った観念を植え付けかねないものである。

 一方、<実とは外因、内因を含めた病邪の存在をあらわす概念><虚とは生態の機能面、物質面の不足をあらわす概念>と規定する中医学のありかたにおいては、合理的な病態把握が可能である。「実とは邪気が盛んなこと指し、虚とは正気の不足を指す」のであるが、従って「実証」とは邪気が盛んなために現れる証候であり、「虚証」とは正気不足より現れる証候である。
 現実問題としてとりわけ慢性的な疾患の場合、「虚実挟雑」状態であるのが一般であるが、疾病の過程はある意味では、正気と邪気との相互闘争する過程とも言える。それ故、中医学には「扶正&去邪」の法則がある。この理由から一般的な慢性疾患では「扶正法」、「去邪法」を同時に用いる「攻補兼施」が治療原則となることが多い。

 ところが現代の日本漢方に従っていると、体力の強弱のみで虚実を論じ続けるあまり、病邪(邪気)の存在に対する認識を忘却しかねない奇妙な医学と言わざるを得ない。その奇妙さをカバーするためか、かの徹底した実証主義者であるはずの吉益東洞が提唱した「万病一毒論」という「観念論」を利用して一事を糊塗する以外に、この極めて幼稚と思える漢方医学をどう弁明できるのであろうか?

専門用語が未熟な日本漢方より一部抜粋

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posted by ヒゲジジイ at 16:28| 山口 ☔| 日本漢方の情けない現状と限界 | 更新情報をチェックする