2005年11月12日

「誤解、誤解」と書かれたタイトルで文学部学生Bさんからのメール

文学部学生Bさんからのメール: 疑問の回答待ち、了承していただけて幸いです。

 私は「芥川の専門家」ではないです。
 多分、これからも、「専門家」にはなりません。芥川も、芥川の文学も、好きですが、芥川マニアになる気はありませんので。「主に」芥川の文学を研究している…芥川「だけ」ではなく、「も」研究している、というニュアンスです。(もちろん、まだ研究といっても手習いの段階ですけれど。)

 また、典拠について。
 私のようなテレビ世代の人間よりも、はるかに書物の虜であったであろう先輩にかかっても、芥川にかかわらず、典拠が明らかになっていない引用が多いことは事実です。「ツマラヌ連中」、然りです。
 しかしながら、私たちの日常言語(詩的言語ではなく)が、すべて誰か(既存)の言語体系を模倣することで成り立っていること、また、それを組み替えることで個々の言語の異なりが生じる、ということがあります。とどのつまり、言葉の綾である「文学」は、すべて引用の織物であると考えることができます。また、そこで使われた(引用された)言葉は、その言葉自身について反省=批評=再解釈することを必然的に要求します。(古典を読む、という行為と同じことが、ある語が発せられた瞬間に、語のレベルで行われてもいる、ということです。そして、その行為は、誰彼の意識如何ではなく、言語使用の際、常に行われていることだと思います。たとえば、この言語使用の連続のうちに、少しずつ意味=用途がずれていった結果、昔と今で意味が変わることもあります。)

 引用の典拠を逐一明らかにする、ということは、研究上確かに有益ではあります。しかし、明らかになったところで、わかることは、その明らかになった典拠について、作者がどのような批評態度を示しているか、ということにすぎません。また、その批評態度を解することができなければ、単に「典拠はコレである」という指摘にとどまるだけです。これまでの多くの文学研究に言えることですが、典拠が明らかになると、典拠をそのまま引用しただけでオリジナリティがないとされたり、典拠に比してつまらない、とかいう評者の非常に主観的な意見で終わるパターンが多くを占めます。重要な意味を見出せない典拠を発掘したところで、それは作品それ自体にとって、ほぼ無意味です。

 また、先にも言いましたように、言葉は、どんな言葉であっても、他者の模倣・組み換えですから、細かい言葉のレベルで「典拠」ということを突きつめることは、実際問題として、不可能=不毛です。作品のイメージであったり、登場人物の名前であったり、発話であったりといったさまざまなレベルの事柄が、他の作品の想念・固有名・言説とが関連付けられたとき、典拠として認定されるわけですが、重要なのは、その言葉に向けられた、参照的な視線=批評行為です。一つ一つの言葉が、どれだけ多くの意味を内包し、その作品としての意味を産出しようとしているかが、その作品の価値になると思います。もし、文学研究という、職業が使命を負っているとしたら、私は作品が持っているたくさんの意味を明らかにしながら、その中でもオモシロイ=妙と思うものを提示していくことだと思っています。

 なお、私は、誰(ユウメイジン)が書いたからスゴイのではない、と思います。
 また、誰(ユウメイジン)の理論・言葉(ムツカシイコト)を使っているからスゴイのではない、とも思います。
 一番スゴイな、と思うのは、自分の頭で考えたことを、わかりやすい言葉で表現できること、です。

 それと、私は、陳腐な考えを持っているというより、自身が陳腐な人間だと思っています。だから、いつでも、捨て身です。自分でやれるところまでやってみよう、と非常に楽観的に考えています。
 ありがちかもしれませんが、私は「国語さえ、なかったら(いいのに)」と思うほど、国語が大の苦手でした。学校のテストで、平均点に届いたことは、ほとんど無かったです。(技術試験である古典は別。)ですから、自分の論はもちろん、言語能力それ自体に、自信がありません。トラウマですから、おそらく永遠に、克服されることはないでしょう。
 ただ、学校に通う=先生のお話=授業を聞くのだけが楽しみで、「今日まで」学校に通い続けている、言うなれば、学校マニアです。決して勉強が好きな優等生ではなく、学校に通って、先生のお話を聞けることが楽しいから聞きに行く、努力と無縁の天邪鬼です。ただ、お話を聞けば聞くほど、自分と同じような考え方をしている人が世の中に多いことを知って、自分の考え方もアリなの(言ったらわかってくれる)かな、と発言する勇気が持てるようになりました。言ってみた結果、「君の論文、面白かった」と感想をもらって、世間に自分が認められたような気持ち(思い込み)を持つことになり、今に至る「だけ」です。実際には、運がいいだけで生きている劣等生です。劣等生なのに、世に出て働きもせず、ある意味特権的な学生という立場に甘んじている。現状では、まったく、始末に終えません。

 村田さんはもちろん、私にとってはその「ツマラン」…先輩方も、知識・教養・論力をお持ちである、という点で、全く、敵いません。生きた年数という意味ばかりではなく。

 今、私にできることは、<よく見聞きし、考えた上で、適切な手段で意見する>という一連の流れを身につけることです。そのためには、まだまだ知識・教養・論力が、たりません。

「したたかな言葉に、声を荒げて応じれば、相手の手に乗ってしまうと思います。」と言ったのは、このような私だから、です。何よりもまず、心を静かにして、見極めるしか、私にはできません。陳腐で、然りです。そして、私は、意見をするとき、自分だったらこうする、という意見しかできないので、素地の異なる村田さんに、私レベルのあり方は、無用だろうと思います。なお、「青二才の傲慢さ」と書いたのは、こうした私のあり方が、ニヒリズムにとられるかと思ったから、なのですが、陳腐と軽みにとっていただけたので、気楽になりました。
 また、私は人に「いつでも笑ってる」と言われるお天気娘です。自分自身あるいは社会に対して、面白くないから憤ることはあっても、特定の個人に対して怒ることは、余程でない限り、ありません。

 とりいそぎ、誤解を解いておくために一筆失礼しました。
 しばらく沈黙いたします。ご容赦。

 ごきげんよう。


ヒゲ薬剤師の返信メール:拝復  

ソシュールの言語学をご存知ですか?

構造主義のブームの土台となった言語学者ですが、おっしゃってることはすべて、ソシュールがすべて言ってしまっておりますが、それを知らないで書かれているとしたら、大変素晴らしいことです!

ソシュールの構造主義言語学を知ってて書かれたのなら、半分しか素晴らしくありません。

きっとご存知でしょう。東大などでも、ひところ、文学を構造主義的な分析を盛んにやっていましたが、今頃は、そんなブームも去ったのでしょうか?

むしろ中医学が構造主義科学として、既に中国では大昔から、この構造主義は、天然界の当然の現象として、「陰陽五行学説」を早くから打ち立てています。

ともあれ、陳腐の話ですが、小生は自分自身、けっして陳腐ではないどころかあらゆる面で発想が人と異なっていることに誇りを持っています。

若い頃には、偉い先輩方に遠慮して、我慢していた訳でもないのですが、50歳を過ぎる頃から、いい意味で(自分ではいい意味でと信じている)プッツンしてしまいました。

人生は、過ぎ去ってみれば、あまりに短い。

だから、Bさんも、早くしっかりした目標を見つけて、没頭すべきではないかと思いますが、これは人それぞれのお考えだから、余計なことは言いません。

ある程度、歳を取ってしまうと、外見は老獪に見えても、大分空洞になって、見かけ上、押しが利くように見えるだけ。ややぼけていることも多い。

若いうちに、やるべきことをやっておかないと、頭が冴えるときに頑張っておかないと、K氏みたいに、頓珍漢を言うことになる、ということです。
単なるフランス絵本の収集家に過ぎない。

記憶力抜群の人は、医学書や薬学書などでも、一読すればほとんどすべてを覚えてしまう凄い人種がいる。
ところが、天は二物を与えないのか、創造性が伴わない人が多い。

モンテーニュも自分のもの覚えの悪さを嘆いていましたが、そのお陰で思索が進み、不滅の「随想録」を残しています。

ともあれ、唐突ですが、ブログでもやって、それだけの文章力を書きなぐりで構わないから、吐き出してみるといいと思います。

本当に捨て身なら、人生は意外に短いのだから、猪突猛進も、案外素晴らしいかもしれませんね。

まとまりないお返事、今日も、ボケ爺さんはお疲れさんです。

そろそろそちらも冷え込むことでしょうから、風邪には十分ご注意下さい。

頓首

追伸

芥川とヒゲ薬剤師

ヒゲ薬剤師は若い頃、漢方界で常に、医師でないことにコンプレックスを感じていた!

昨日書きました。
posted by ヒゲジジイ at 16:16| 山口 ☀| 日本の漢方関連医学・薬学史問答 | 更新情報をチェックする