2014年07月29日

「科学とは錯覚である」という極論は科学を否定している訳ではない

2010年7月29日のボクチン(6歳)
2010年7月29日のボクチン(6歳) posted by (C)ボクチンの母

 今月は、ほとんど休める日が数えるほどしかなく、老体には応える日々が続いている。
 新規相談者は、電話やメールで問い合わせる人はすべてお断りしても、このブログを熱心に読まれた本気度が強い人は、ストレートに直接来られている。

 本気度が絶大であればこその啐啄同時(そったくどうじ)か、主治医も明らかに認める転移癌が急速に消退するケースに遭遇するのは、どんなに疲れていても気分が良いものである。

 とはいえ、まだ月曜日というのに疲れ切って却って眠れないので、嫌々ながらも今日のブログはボクチンの写真を貼るために、無理して書いているので内容は乏しい。

 池田晴彦氏の本の題名をもじって「科学とは錯覚である」と、常々いろんな場所で書いていると、ヒゲジジイは科学の否定論者だと、本当に信じ込んでいる人がいるので驚いた!

 常に科学知識はその後の新たな仮説と検証により、予想外の方向に塗り替えられる可能性を内在しているので、それを強調する意味で「錯覚」という言葉を使っているのだが、その機微がさっぱり理解できない人がいるらしい。

 要するに科学に最終的な真理など、あり得ない。ましてや定説なんて、いつ何時、ひっくり返るか知れたものではない。
 アインシュタインの「相対性理論」もいつまで定説でおれるか、知れたものではない。

 もっとも笑うべきは、ネットサーフィンしていたら、ヴァージニア大学の「生まれ変わり」の仮説を裏付ける膨大なデータよりも、統計的に見ればずっと膨大な「生まれ変わりの経験は自分には無い」と考えている人のデータの方が多いのだから「生まれ変わり」はあり得ない、と自信を持って否定する唯物論科学信仰のドグマに陥っている論客のコメントを読んで、涙が出るほど笑いころげてしまった

 このようなおめでたい奇論がまかり通る日本である。 
 なぜ、笑い転げてしまったのか?
 それすら分からない人は、いつまでも縁なき衆生である。

 死んだら終わりと思うから、許しがたい悪徳が世に栄えるのである。

2010年7月29日のボクチン(6歳)
2010年7月29日のボクチン(6歳) posted by (C)ボクチンの母

2010年7月29日のボクチン(6歳)
2010年7月29日のボクチン(6歳) posted by (C)ボクチンの母


posted by ヒゲジジイ at 00:08| 山口 ☀| とんでもない話や、信じられない困った話 | 更新情報をチェックする