2015年05月25日
哲学の貧困および道徳の源泉について
2009年05月25日の茶トラのボクチン(5歳) posted by (C)ボクチンの母
昨日のブログは、半数以上の人には不人気であることは重々承知している。
でも、スピリチュアルな話題を喜ばれる人達もあり、様々な賛同のお言葉を頂くことも多いのである。
いずれにせよ、「あの世」は絶対にあり得ない、「この世」しかないのだという刹那的な人生観しか持ち得ない無縁の人達の心理は理解に困しむところであるが、想像力の欠如というべきか、哲学の貧困ともいうべきか。
といっても哲学者のベルグソンの『道徳と宗教の二源泉』を持ち出すまでもない話。
「あの世」があって、その世界は「この世」も含めて、因果応報の法則が厳密に働いていることを知らなければ、地上における道徳心は、砂上の楼閣に等しいだろう。
ドストエフスキーが指摘するように、そのような唯物論者の中には、死ねばすべて終わるのだから、人間は何をやっても構わないという、快楽原則にまっしぐらという刹那的な人生を送ろうと企む人も出て来るだろう。
だからいつまでたっても、世界に平和は訪れないし、日本国内でも凶悪な犯罪が後を絶たないのである。
数ヶ月前に、匿名者による非常識な非難メールがあり、「あの世」があると言うお前の頭は狂っているから精神病院へ行け、などと罵詈雑言を吐く輩など、傍若無人。みずから「あの世」の地獄の切符を買い求めているかのようである。
極論すれば、道徳の源泉は、お天道様や御先祖に対する畏敬の念から生まれる部分が大きい筈である。
人間は死んだらどうなるか?という誰もが持つ疑問を宗教界にまかせっきりであることこそ大きな問題だろう。
生死の問題こそ、人生最大の疑問であるはずだが、教育界も各大学も、あまりにも怠慢であるとしか思えない。哲学の貧困も甚だしく、ソクラテスやプラトンの時代よりもはるかに劣る。
日本には古神道はもとより、死者との対話が多い『能』という伝統芸能があり、死後の問題をとくに重視した国学者の平田篤胤など、日本の「この世」は常に「あの世」がコインの裏表のように存在する文化であったことを思い出すべきだろう。
ともあれ、日々の仕事では、多少とも命に関わる疾患の漢方薬によるサポートが主な仕事となっているが、死んだら終わりと思い込んでいる人達に限っては、少しずつでも「あの世」の仕組みを学んでもらっている。
それを素直に受け入れる人ほど、免疫系統が正常に作動しやすくなるようで、明らかにその後の経過がより好転しやすい。
皆に共通する死に対する不安と恐怖が取り除かれることで、今後の人生を有意義に過ごしやすくなり、免疫系統がパワフルに正常に機能しやすくなるので、健康に大きく寄与することは想像に難くないだろう。
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posted by ヒゲジジイ at 00:00| 山口 ☀| 哲学の煙(けむり)と漢方薬
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