突然の質問をお許しください。
自分は小さいときから漢方薬に接しており、また、医師になった後でも漢方薬の勉強や投与をしてきました関係から「病気に対して他の方とは異なる独特の考え方」を持っています。きっと、その考え方は村田先生の考えと似ていると感じています。
ところで‥アトピーでも認知症でも、なんの病気でも同じなんですが‥一般の人(医師を含めて)は病気が起きている場所しか見ようとしません。
小児のアトピーなどは「小さいうちは免疫が未熟でアレルギーがおきやすいけど‥体が成長していけば治ることも多いんですよ」とか医者に言われて納得しているのだと思います。薬を飲ませて今だけでも症状が取れれば納得するんですよね。
今‥自分の勤めている病院の看護士から「子供の舌が茶色に変色して大学の耳鼻科に見てもらったけど検査があまり変化ないから‥近くの耳鼻科にかかっている」とか‥、加えて、その子のことを聞くと「耳から浸出液がでる‥アトピーで皮膚科にいったり‥肺炎で休んでる」などと話します。
このことからすれば、色々な医師にかかっているようですが‥自分が「かわいそうだろ!」という話をしても耳を傾けません。ハァ〜
もう、すでに村田先生にはお分かりの通りの解毒症体質の子です。それも舌が茶色なんですから、かなりの鬱血です。
話を聞いていて、説得できない自分が情けないです‥。
そして今日、視床出血の患者さんと少し話しました。ほぼ寝たきりですが‥ある程度の会話は成立します。「ここが悪いんだけど分かる?」との自分の問いに「分かる」と答えるんですね。
その場所は、頭ではなくて、胴体の一部分です。これも‥自分の気持ちを突き刺す言葉でした。
患者の言葉に耳を傾けないのは医師を含めた回りの人なんですよね。
先生、僕は自分の意思を貫く医療をするべきなんでしょうか?
僕は家族や身の回りの人には、自分が正しいと思う医療をしていますが‥一方で、お金を稼ぐために諦めとも似た医療をしています。
見捨てている自分は逃げているだけなんでしょうか?
お答え頂ければ幸いです。
お返事メール:拝復
六君子湯や大建中湯、抑肝散のようにエビデンス漢方による患者さんの被害に最近、またまた遭遇しました。
大腸がん手術後の大建中湯エキス剤の投与により、激しい皮膚の掻痒に見舞われています。適応症の区別も付かないエビデンス投与により、一部の患者さんは迷惑しておられます。
日本の将来の漢方の為を思えば、漢方の本質を理解されて先生のような人達が一人でも多く出てこないことには、日本の漢方はますますエビデンス漢方に堕するばかりです。
ひるがえって職業として考えれば、確かに信念を辛くぬことは経済的な冒険は免れないと思います。
西洋医学専門の開業でさえ、身内の内科医の中には少し前まで出身大学近辺の都会での開業を真剣に考えて調査した結果、親の医院があるわけでもないのに、資金的にもかなり困難なことが分かり、方針を変えて、転々とアルバイトの口を何軒も掛け持ちして資金を得る方法に切り替え、開業を無期延期している者もいます。
でも先生の場合は、一定の地盤もあってのことゆえ、人生は一度しかないのですから、この世界に打ち込む情熱がありやなしや、の問題だと思います。
自分のことを出すのもなんですが、薬局ながら漢方専門で貫いた若かりし頃(苦笑)、流行る薬局でもないのに、毎月毎月、膨大な書籍代の浪費に家計を常に圧迫して、愚妻には随分苦労をかけてしまいました。
あれだけの書籍代を投入しなければ、もっと楽な生活が出きていたのに、と思う反面、逆にあれだけの書籍代の浪費があればこそ、漢方を本業として貫けたのだと考えると複雑な心境に陥ります。
人に教わるのがイヤで、書籍に頼りながら自身の感性を頼りに、西洋医学に見放された人達がいつまでも諦めずに通って下さるのを徳とし、深夜まで寝ずに書籍を調べながら格闘する毎日が続きました。
その多くの患者さんたちのお陰でいびつな中医漢方薬学などと嘯く老人となり果ててはしまいましたが、ようやく漢方の本質の深いところの一端が少し分かりはじめたような気になっています。
世の中には、ご存知のように西洋医学では解決不可能な疾患が五万と存在するわけですから、何も背水の陣で挑まなくとも、上記のようなアルバイト先を点々とする医師をヒントに、高額な給料を支給されるアルバイト先を一つ二つ掛け持ちしながら、先生の信念を貫けるクリニックを開設されるべきかと存じます。
アドバイスの方向が間違っていたらとても恐縮ですが、小生が先生のお立場だったら、信念を曲げた生活は耐えられないですし、また組織に属するのが大嫌いですから、きっとそうするだろうな〜〜〜と思った次第です。
折り返し頂いたメール: ご指摘の通り、開業を模索したいと思います。
ただ、開業に際しては何か欲しい‥との考えより、一般向けの本と専門向けの本を書きたいと思います。子供の程度かもしれませんが‥傷寒論の理論的な解析を終えており、病気の本体を探ることも可能なレベルになっているのではと自分なりに考えております。
そんな本が漢方の進歩に一役を担うことが出来れば幸いなのですが‥。
病気は額に入った絵と同じに思えます。
絵が変われば‥当然、変わったことがわかります。
でも‥額縁が変わった時のことを考えていません。
額縁が変わっても絵が変わったように見えるはずです‥。
病気を診るときに特に問題なのは後ろのケースです。
臓器は、その背景臓器とのバランスを取って運動しています。
ある臓器に症状が現れる場合でも、その臓器自身が根本原因ではなく、背景臓器が変化することによって起きる症状もある‥ということを暗示していると思います。
もちろん、この考えが慢性病を考える上での重要なポイントになるに違いないと考えますが‥説得できるかどうか?
でも‥動くことなんですよね。
出来るだけ模索してみます。
今日、患者の体を診て思ったことは、下腹部、つまり骨盤内のエネルギーと病態との関連です。骨盤内臓器は一生を通してダイナミックに変化します。女性なら初潮を向かえ、妊娠、閉経‥となり、骨盤内の力によって体が出来、生殖を可能にし、年を取ると骨盤内の力も下がり閉経となり、老いて行きます。
下腹部に力がない場合は、体に力が入りません。特に、死んで行く方は極端に下腹部の力が落ちて色々な症状をだします。
その症状は下腹部以外に多く、「額縁と絵の関係」のように、面白い所なのかもしれません。
漢方薬でも、人参湯などは胸部の痛みが取れる漢方薬でありながら、そのフォーカスされている場所は下腹部が中心です。
こんなことを書いていると‥矛盾を背負って死ぬよりも、背水の陣で自分が正しいと考えたことをすべきなのでしょうね。やはり‥やるべきですよね。
づらづらと書いてしまいました。
本当に感謝しております。
編集後記:惜しむらくはこの先生のお考えは、中医基礎理論を学ばれていれば、中医学的には常識的なことを説明されているに過ぎないことに気づかれていたずである。
日本漢方の限界から抜け出すには、常々中医学を学ぶことが必須であることをアドバイスしていたのだが・・・。
『素問』咳論に曰く
五臓六腑はみな人をして咳せしむ。独り肺のみにあらざるなりという条文をあげるまでもなく、関東の医師が述べられる「ある臓器に症状が現れる場合でも、その臓器自身が根本原因ではなく、背景臓器が変化することによって起きる症状もある」のは中医学的には当然のことで、やはり中医学をご存じない日本漢方の先生方の限界を感じざるを得ないのであった。