当時の月刊『和漢薬』誌に掲載されているので、いずれ、全文をどこかのサイトに転載しておきたいと思うが、本日のタイトルに関連する部分だけを抜き書きしたい。
革新的なもの斬新的な発想や創造的な仕事を行うには保守的でなければ真の革新や創造性は生まれるはずがないという我田引水的な論調だが、一面の真理を突いているものといまだに信じるものである。
(前半部分はすべて省略)あらゆる分野で共通して言えることだと思う。
消滅しかけた日本の漢方を、今日ある漢方の隆盛の勢いに導いた最大の功労者の一人である大塚敬節先生を失った今、日本の漢方界は、「術としての漢方」を置き忘れることのないよう、残された先生の多くの御著作に、常々、立ち返り、日本の伝統的漢方の質の高さについての認識を新にする必要があるのではないでしょうか。
とりわけ、先生の御高著「漢方の特質」を座右の銘として、中医学を研究するにも、漢方を科学的に研究する時にも、我々日本人の血に流れる、大地性、一文不知性、単刀直入性、具体的真実性、即生活事実性に根ざした特質を充分に認識する必要があるのではないでしょうか。
けだし、過去の伝統の理解なくして、また、精神的に帰するところが保守的でなくしては真に創造的なものは生まれて来ない。
革新とは、保守あっての革新であり、革新は保守的である時にこそ真の革新が生まれ、保守的なものを内在しない革新は、砂上の楼閣に等しい。
伝統を踏んで、自分の足場をしっかり知るもののみが、新しいものを産み出し、真に創造的であり得る。
大塚先生の漢方は、それらのことを、臨床家の実践哲学の記録としての御著作で、我々にお教えくださっていたのではないでしょうか。
(後略)
━村田恭介著「求道と創造の漢方」東明社刊の315頁
伝統を保守し、先人の業績を理解するとともに敬意を表することなくして地に足の着いた改革は行えないだろう。
あらゆる分野において古典が重視されるのもこの理由からであろう。
だからこのどうしようもなく腐り果ててしまった日本國を憎みながらも、やっぱり愛さずにはおれないのである。
憎いのは腐り果てた現代日本社会であり、百年前以前の日本はすべて美しいのである。それは随分前に過ぎ去った過去だからこそ美しいのである。美しいところしか見ないようにするからますます美しいのである(笑)